学生時代のエッセイ

このエッセイは、「クラッシュボール」の撮影が終了し、学生映画という枠組みの中では「やりきった・・」と考えていた時期のエッセイです。

同時に、「クラッシュボール」を手伝ってくれた学生達が自分達の作品を撮影し始めた時期でもあります。そして、当時次々に僕のところに「プロデューサーが役に立たない!」「監督が我がまま!」などの、それぞれのチームから相談事が持ち込まれていた時期でもあります。もちろん、当時の僕にはプロデューサー論など語れるはずもなかったのですが・・・うーん、語ってますね(笑)

当時の僕が考えていた「学生プロデューサーの在り方とは?」みたいなのが語られています。今読んでも、経済産業省の「プロデューサー育成カリキュラム 企画開発」で書いていたもののベースになっているなとは感じます。まーかなり青臭いですが・・・。

あ、あと思い出したのが、当時、極貧の僕はこれを色んな映画、映像雑誌社に連載として売り込もうとしてたんだ・・結局、売れなかったんだけど(汗) まー3年後、経済産業省の教科書のベースとして使うとは当時思いもよらなかったなー。

インディーズ プロデューサー論1   2003年7月

自主制作映画におけるプロデューサーの役割とは?

さて、今回こういう題材で何か書いてみようと思ったのは僕がLAで主催する映画製作チームPlanet Kids の活動を通して自主制作映画、もしくはインディペンデント映画を製作する仲間から「プロデューサーが見つからない」「プロデューサーって何するの」という質問をよく受けるからだ。


確かに、プロデューサーという役職は何をするのか分からない場合が多い。そりゃ分からなければ、プロデューサーをやりたい!なんて人はいないだろう。でも、考えてみて欲しい。プロデューサーのいない映画なんてないのだ。しかも、日本の映画業界では現在「力のあるプロデューサーがいない!」というのが深刻な問題になっているのだ。そして、ついに今年文化庁が学校におけるプロデューサーの育成に力を入れるとまで言い出した。


果たして、プロデューサーとは何をする人なのか?はっきり言って、この役職の役割をどこまで具体的に僕が説明できるかは分からない。なぜなら、このプロデューサーという仕事は100人いれば、100通りのやり方があるし、方針もそれぞれ違うからだ。また、メジャー映画とインディペンデント映画、自主制作映画など、予算や規模によっても変わってくる。だから、僕がここに書くことは、あくまで一つの考え方であるという認識で読んで欲しい。いや、むしろここに書いてあることを鵜呑みにするのではなく、映画製作を行う前に監督とプロデューサーとで「制作方法」を話し合うときの材料にして頂ければと思う。


僕はプロデューサーを専門にやったことがあるわけではない。しかし、監督とプロデューサーを兼任しながら10年以上自主制作をやってきて、僕なりに考えたプロデューサー論というものを、この機会に書いておくことにする。自主制作や自主制作映画におけるプロデューサーとはどういうものなのか?これから、映画製作を始める方々のお役に少しでも立てればと思う。

この文章における定義:実際の定義とはかなり違います。
自主制作映画:制作費を自分で補っているか、スポンサーをつけているかに関わらず、スタッフ、キャストがほぼボランティアの状態で参加している企画(本来アメリカにおける自主制作映画の多くは、スタッフやキャストにも賃金が支払われている)。

まず、自主制作におけるプロデューサーに対する誤解が多いので、そこを正していくことから始める。

インディーズ プロデューサー論2 企画を立てる

2、企画を立てる

 まず、これが一番重要な仕事だ。この「企画」をしっかり立てることがプロデューサーの一番の仕事と言っても過言ではない。プロデューサーが一番働くのは制作の前と後。すなわち、プリプロとポスプロである。制作に入ってしまえば、事故や問題が起きない限りやることと言えば、順調に進んでいるかの?監視くらいのものだ。(まー問題がないというのは、ありえないけど・・)
大体、自主制作映画の場合、自分が参加したときには監督がやりたい企画がすでに決まっている場合が多い。しかし、あえて言うなら
 「あなたが気に入らなかった、その企画を白紙にしてもかまわない」のだ。
自分がプロデューサー、つまりこの映画の責任者として命がけになれないような企画なら参加しないほうがいい。少なくともプロデューサーとしてのクレジットを載せるのはやめよう。実際、PKでは僕や脚本の大樹が煮詰めた企画がプロデューサーの意見によって、何度も没になっている。
では、プロデューサーはどのような視点で「企画」を考えるのか?

A)この企画をやる意味があるのか?
これは重要だ。果たして、自分達が今、この時期に、このメンバーで、これだけの資金でこの作品を制作する意味があるのか?これをしっかり考えてみよう。

B)最終的にこの作品をどうしたいのか?
これは、A)のなかでも重要なポイントになるのだが、作品が完成した後どうするのか?誰に見せるのか?どこで見せるのか?

例1:もし映画祭に出品する!となったら、どこの映画祭に出すのか?
映画祭の出品料は予算に組み込んであるのか?締め切りは?その映画祭のカラーは?とまで考える。

例2:もし自主上映する!となったら、どこで上映するのか?
入場料はとるのか?宣伝展開はどうするのか?を考える。例えば、ラブストーリーを制作するとしても、普通の人がキムタクやブラピの出演していないラブストーリーを果たして見るだろうか?もちろん、レオンのように「凶暴な愛」などカッコいいキャッチコピーと思わず見たくなるようなシチュエーションならば見たくなる。だから、企画の時点でどういうイメージを観客に想起させるかを考えなければならない。

C)資金は回収するの?
もし、外部からの投資を受けているのなら、これもビジネスプランとしてしっかり考えるべきだろう。例えば、資金回収や利益を考えた場合、長編に比べて短編はかなり売りにくいという現状もしっかり認識しておいたほうが良い。もちろん、方法はあるが・・

D)挑戦とリスクのバランスを考える
これは、今書いていて自分でも深く考えさせられる問題だが、監督と言うのは新しいことに常に挑戦したがる人種である。また、挑戦しないような監督との仕事は、自分にとってあまり成長をもたらなさないだろう。そして、プロデューサーとして監督と共に果敢に挑戦していくのはとても重要なことである。しかし、常に客観的な視点を持つことはプロデュサーの役目である。この挑戦は、本当に成功するのか?「無謀」ではないのか?と言うことをしっかり考える必要があるのだ。例えば、本当にこの作品は35mmで撮影する必要があるのか?16mmでも、いやDVでも十分ではないのか?などである。ただ、この決定は「A:この企画の意味」がしっかりしていないと、折角、監督が素晴らしいアイデアに挑戦しようとしているのに潰しかねないのでご注意を。ちなみに、
僕の場合は、いつも「無謀」ギリギリでやっているところが問題なのだが・・。

結局、「この企画の意味」というものを考え、監督と話し合い、しっかりとした方針を決めないと色々な問題が出てくるし、製作中にスタッフから不満が出たときにも説得するのが難しくなってくる。
最初に、しっかりした「方針」を打ち出し、その考えに賛同したスタッフに集結してもらうことにより映画製作を始める。これが、プロデューサーが最初にすべきことであり、一番重要な仕事である。
あとは、この方針に従い「企画」を皆で形にしていくのだ。

インディーズ プロデューサー論3 製作準備


  自主制作映画において、この部分は結構しっかりやっている人が多いが、やはり多くはその認識を間違えている。まず、プロのプロデューサーなら自分で動くよりも、ラインプロデューサーやアシスタントを動かすのだが、自主制作映画の場合スタッフ数の関係上、自分で動かなければいけない場合がほとんどだ。試しに、やらなければいけないことを簡単にリストアップしてみよう。
   スタッフィング、撮影中の食事の手配、ロケ場所の許可取り、スケジュールの制作、予算管理、スタッフへの連絡体制の確立など。
この他、撮影部と連携して機材の管理や値段交渉など一人でこなすのは、かなり厳しい。だからこそ、うまいスタッフィングというのが重要なのだ。だいたい、撮影や編集などは監督との相性があるので、監督が自分でスタッフィングする場合が多いが、キャスティングや制作部などはプロデューサーがしっかり考えよう。
最初は、なんでも自分でやろうとするが、自分の力でできることの限界を知り役割分担をしっかりするようにしよう。特に、制作部は業務も曖昧なままにしている事が多いので考え直す必要がある。もちろん、この部署に参加してもらうのは自主制作映画では難しい。そのことは十分、分かっている。そのことを踏まえた上で、少しスタッフィングに関して書いてみよう。

スタッフィング
撮影や美術を兼任することはあまりないが、ラインプロデューサー、キャスティングディレクター、アシスタントプロデューサーなどは得てしてプロデューサーが兼任することはあるが、先にも言ったが、なるべくならやめよう。プロデューサーが専門職を兼任するのは現場が混乱する元だ。プロデューサーは現場において、何もしない立場なればこそ、現場を客観視するという大役がこなせるのだ。だから、スタッフ集めは頑張って欲しい。もちろん、ただ闇雲に「手伝って」と言うのではあまりスタッフは捕まらないだろう。
なぜなら、皆、「監督になりたい!」とか「撮影監督になりたい!」とかそれぞれ目標があるのだ。だから、技術職ではない制作部のスタッフになりたいという人はあまりいない。でも、考えてほしい。中にはきっと、「制作部の仕事はなにをやるのか分からない」という人もきっといるはず。だから、それをうまく説明してあげられなければいけない。確かに、「撮影中の飯の準備」や「寄付を貰いにいく」など映画の現場から遠いところで働くことや、いわゆる雑用的な仕事が制作部に集中することは確かだ。プロなら金を貰っているので「生活がかかっている」などの理由にやってくれる人も多いが、自主制作映画の場合、自分の大切な時間を使って「無駄なお手伝い」はしたくないという場合が多いし、それが当然だと思う。なん人たりとも、「無駄だと思う時間」を人のために使って欲しくない。(余談だが、マザーテレサすらも「私は人の笑顔を見て自分が満足するために働いている」と言っている・・って、超余談だ・・)だから、自主制作映画においてスタッフの企画やプロデューサー、監督に対する姿勢はとてもシビアだ。でも、もしプロデューサーが本当にスタッフをやる気にさせることができれば、それは素晴らしい。(余談2:岩井俊二が自主制作よりプロのほうが監督としてはスタッフとの関係は楽と言っていた・・確かに・・)
だから、まずプロデューサー自信が制作部の仕事が雑用だと思うのはやめよう。その上で、制作部の仕事は「現場を円滑に進める」という大役がであることをしっかり説明しよう。「食事の準備」一つとっても自主制作映画の予算の中ではかなりの割合を占める。そこをどう、乗り越え質の良いものをスタッフに提供できるか?どれだけ、要領よくスケジュールを組んだり、各部署の連絡を手際よくできるか?など映画以外の業界でも確実に必要とされる力が訓練できるのだ。
でも、これもあくまでアシスタントスタッフが自分で考えて行動すればこそ身につくことだ。だから、プロデューサーは最初に皆に言っておこう。「自分で考えて行動して欲しい」と。そうすれば、たとえコーヒー1つ配るのにしたって効率の良いやり方、お菓子を出すのだって忙しい撮影部にもうまく行き渡る方法をその人なりに考えられるはずだ。そして、結果的に良い環境の現場になり、本人も充実感が得られるのではないだろうか?だから、最初に「自分でやっている」という感覚が、うまく芽生えるような気持ちをプロデューサーは整えなければいけない。
まず、自分が「ヤリガイ」を感じる時というのを考えてからスタッフ集めに入ると、きっと素晴らしいスタッフと出会えるのではないだろうか・・。
 
  企画をしっかり立て、良いスタッフにも出会えた。役割の確認もする。そして、いよいよ撮影が始まる。ここからは、しばらく自分が一緒にやろうと選んだ監督を信じよう。なるべくなら、プロデューサーは何もしないのが一番。なぜなら、それは問題が起きないことを示すからだ。しかし、問題というのは必ず起きる。それは、ガンと同じで早く気付くに越したことはない。そのために何をするか?

インディーズ プロデューサー論4 プロダクション開始 撮影

4)プロダクション開始:撮影


A) ピンチはチャンスに変えろ!

   プロダクションの規模にもよるが、大きいメジャー映画だとプロデューサーが撮影現場に現れることは少ない。もちろん、ロケなどが多い場合問題が起きやすい場合はなるべく現地入りするが、基本的にはラインプロデューサーに任せる。そして、毎日ラインプロデューサーから報告書を提出してもらい撮影がスケジュール通りに、且つ予算内で安全に行われているかを確認する。しかし、こういうタイプはあくまで完全なプロの世界であって自主制作映画でこれをやるのは無理だ。自主制作映画の場合は、自分はもちろん、ラインプロデューサを始めとする各部署の責任者も未熟なため、できる限り現場にいて、次々に起こる問題を共に解決していかなければならない。例えば、僕の現場でも俳優が撮影前日にキャンセルしてきたことがあった。僕らは全てのバランスを取ったスケジュールを組んでいたので、そう簡単に撮影シーンを変えることはできない。美術部もすでにセットを組んでいる。

これは、キャステイングディレクターの責任になるのだが、ほぼボランティアで出演して貰っているため仕方がない。ここでプロデューサーがすべき事は冷静になること。冷静になり、監督やADと話、次にどうすべきか策を練る。そして、一番良い方法を見つけ出す。もちろん、犠牲は伴う。僕らの場合、美術が徹夜で組んだセットを取り壊さなければいけなかった。美術部としてはたまったものではない。美術部からは、もちろん不満がでる。これは、当たり前だ。こういう不満は自主制作映画の場合、プロデューサーに向けられる。しかし、不満を漏らす美術部だって本当にプロデューサーが悪いとは思っていない。ただ、怒りをぶつける場所がないのだ。そこを踏まえて、如何に誠意を見せるかもプロデューサーの力の見せ所なのだ。

逆に言えば、こういう「ピンチはチャンス」だと思っていい。問題が起きたときに「どう対処するか?」で、その後のスタッフとの関係を強めることができるのだ。そして、こういった積み重ねがその後に起きる数々の問題に力を合わせて解決するという結果に繋がってくるのである。

B)プロデューサーは要領よく、自分をコントロールすべき?

戦争に実際に行ったことがない僕が言うのも恐縮だが、映画製作は、例えていうなら戦場に近い過酷さがあるのではないだろうか。苛酷な労働の上に、少ない睡眠時間。次々に勃発する問題は、極度のストレスを生み出す。その中で、どれだけ自分が安定した気持ちを維持できるか?はプロデューサーに向き不向きを教えてくれるだろう。はっきり言って、疲れ果てたスタッフをまとめていくのは大変だ。まともに、やっていたのでは耐え切れないかもしれない。でも、考えて欲しい。最初に言った通り、プロデューサーは基本的には現場で専門職を持っていないのだ。だから、別にスタッフと共に疲れなくてもよいのだ。撮影の間、問題が起こらなければ現場から離れ気分転換でもしてくればいい。

これは、僕が5年前に制作した長編映画SCARの時に経験したことだ。その撮影は、昼間から準備して撤収したのが明け方の7時という合計20時間にも及ぶものだった。しかも、息が白くなるほど寒い中で、夜を徹して雨を降らせての撮影だった。肉体的にも精神的にも過酷だった。そんななか、僕はスタッフ全員の殺意を感じながら撮影を慣行していたのだ。そのときだ、撮影部、照明部がビショ濡れになっているのを見て、プロデューサーは「これは皆に悪い」と思ったのか、自らも敢えて薄着になった撮影に参加しだしたのだ。あえなく、あまりの寒さにプロデューサー自身がイライラしてきた。そして、スタッフ全員がもう少しで反乱を起こす事態になりかけた。結局、役者が「これは撮り切る!」と言ってくれたので難は超えたが・・・。しかし、彼の行動は正しかったのだろうか?「同じ痛みを分かち合う」これは、ある意味素晴らしいことだ。しかし、そのおかげで自分が本来するべきことが出来なくなってしまったら本末転倒になってしまう。プロデューサーは常に客観的に現場を見ると言うのが役目である。そんな、プロデューサーが一緒になってスタッフと苦しんでどうするのだ?プロデューサーにはスタッフとは全く違った苦しみがあるのだから、そんなものは共有する必要ない。

極論するならば、「スタッフが寝てなくても、プロデューサーはよく寝るべきなのである。(もちろん、ばれないように・・)」っていうか、実際、うちのプロデューサーは撮影で、皆が誇りっぽい地下室に1ヶ月こもっているときに、外でカリフォルニアの爽やかなそよ風を感じながらスタバでコーヒーを飲んでいたらしい・・・。

ま、それで冷静にスタッフの意見に耳を貸し、少しでも良い制作環境が整えばそれに越したことはないのだ。もちろん、「俺はよく寝てるぞ!」って顔してたらスタッフに殺されるのでご注意を(笑)

C)プロデューサーは嫌われる?

 プロデューサーというのは、一番ストレスが溜まる役割である。だから、常に自分の感情をコントロールしなければいけない。ある時は、スタッフにスケジュールを守らせるために追い立て、ある時は予算を守るためにケチなことを言わなければならない。こういうのは、ADやラインプロデューサーを通して言うこともできるが、自主制作映画だとそうもいかない。ここは、制作のトップであるプロデューサーが矢面に立って言わなければいけない局面が多々ある。

  これが、監督主導の作品だと監督が自分で言わなければならなくなる。しかし、これでは監督の立場に矛盾が生じる。なぜなら、監督の役割というのは「作品の質、及び内容」に責任を持つのが仕事である。だから、質を向上させるために「ダメだし」をする。その一方で、「早く終わらせろ」と言う。これでは、言われたスタッフはどうしていいか分からない。「やり直し」と「早く終わらせろ」と言うのは同じ人間が言うべきではないのだ。だから、プロデューサーが言うのが筋である。もちろん、撮影の現場ではADは「巻いて行こう!」と叫んでスタッフを追い立てるのだが、それでも遅れる場合は制作部のミスということになる。また、監督がクリエイティブにのめり込み過ぎて、スケジュールや予算を超過しそうな場合もプロデューサーがしっかり説得しなければならない。もし、それでも予算を超過した場合、プロデューサーが超過分を負担することが普通だということを覚悟して欲しい。ただ、この判断も監督と最初に打ち合わせた「方針」に沿って決断しないと、せっかくの企画の「ウリ」を削ることにもなりかねないのだ。

 このように製作中は、スタッフはおろか監督にまでも小姑のような口出しをするので時として嫌われることもあるが、それだけ重要な役割だと言うことを認識しておいて欲しい。

インディーズ プロデューサー論5 ポスプロ:編集 音楽 効果音 CG等

5、ポスプロ:編集、音楽、効果音など

A) プロデューサーは最初のお客?

さて、無事に撮影を終えたとしよう。数々の問題を解決しついに編集に入る。しかし、最初の編集にはプロデューサーは口を挟むべきではない。できれば変更ができるうちは、監督にある程度まかせてしまったほうが良い。なぜなら、作業に立ち会うと客観性が薄れてしまうからだ。もちろん、その間もスケジュールの管理を怠ることはできない。そして、もともと知っているであろう脚本のことも忘れて、最初にあがってきた編集をみるのだ。大抵の場合、そこには意味不明のシーンが多数入っている。もちろん、中には監督のセンスを表すような個性的な映像が入っているかもしれない。しかし、ストーリーが観客に通じなければ仕方がない。また、意味は分かるけどダレてしまう部分など、きっとあるだろう。ここで、プロデューサーが観客の視点で意見を言うのだ。この意見の土台にあるのが、やはり最初に決めた「方針」。「方針」をもとに説明すれば、きっと監督も納得するはずだ。そして、このときのプロデューサーの意見が映画の質を大きく変えるということも忘れてはならない。ちなみに、ハリウッドではこの最終編集権というのが、とても重要視され有名監督になると、この権利の保持を主張し契約書に書かせるのだ。しかし、このケースは本当に有名な、ヒットメーカーとして誰もが認める監督以外は許されないのだ。でも、殆どの監督の場合最初の編集は長すぎるのだが・・・。ちなみに、僕の映画SCARも上映会をするたびに観客の反応を見ながら短くし、最初95分あったものが最終的には80分になった。


B)監督を守るのはプロデューサーの役目?

 自分で書いた絵や文章を人に読んでもらう時、緊張した経験をした人は多いと思う。クリエイティブビティー(創造力)が伴う作業と言うのは本人が意図しようが、そうでなかろうが自分の芯の部分が出てくるものだ。素の自分を見られるのは誰でも恥ずかしい。僕自身も自分の映画を上映しているときは手の先が冷たくなるほど緊張する。なぜって、例えばホラー映画の場合は自分が怖いと信じてそのシーンを作っているわけだから、観客が何の反応も見せないと色々な意味においてショックを受けるのだ。逆に、その作品を誉められると凄く嬉しい。ただ、あまりに臆病になりすぎては商業監督、いや映画監督になんてなれない。なぜなら、映画とは「見られてこそ意味がある」のだから。とは、言っても映画を製作している間、監督はとても不安なのだ。そりゃー、スタッフの手前、表面上は自身満々に振舞っているし、製作中の作品において合格か不合格は監督のセンスなのだから、自身なさげではスタッフも困る。でも、結局、監督が決断する根拠は、その監督が持つクリエイターとしてのセンス、つまり「芯」の部分なので、凄く繊細なことには変わりない。だから、完成後ならともかく(それでも、ある程度ショックは受けるが)、製作中にスポンサーなどから受ける注文や、指摘には頭では理解していても素直に答えられない局面が出てくる。僕なんかもまだ効果音や音楽を入れていない状態などは誰の目にも触れさせたくはないというエゴがある。ただ、スポンサー側は大金を出資しているので、細かい報告を必要とする。そして、その報告に対し方向性の変更などを要求する。こんなとき、決して監督を矢面に立たせてはいけない。こういう時に、監督を守ってあげるのもプロデューサーのも役目だ。

 ハリウッドのメジャー映画においても、この関係はしっかりしている。ビジネス面での成功にしか興味のないスタジオとクリエイティビティーを第一に考える監督の間にプロデューサーは入り、両者のバランスを取っていく。そして、個性的且つ興行的にも成功する作品の完成を目指すのだ。ただ、最近のハリウッド映画はプロデューサーがスタジオ側に寄りすぎているのか似たような方程式に従った作品が目立つ。大ヒットを狙った作品には、斬新さが必要だ。ただ、斬新さにはリスクが伴う。そこを、どうスポンサーに説明するか?これも、出資した金額をきっちり回収しなければならないスタジオの責任と監督のアーティストとしての気持ちという両者の立場をしっかり理解してこそ可能になることだと思う。

インディーズ プロデューサー論6 さて、この映画最終的にどうする?

6、さて、この映画最終的にどうする?

 これに関しては、ほとんどのプロデューサー。特に学生映画のプロデューサーは映画製作の完了ということに満足しているのか、それとも疲れ果てているのかは分からないが何もしない人を多く見かける。

まず自分がこの企画を立ち上げたときのことを思い出して欲しい。プロデューサーは映画が完成したときのことを、すでに想定しているはずだからだ。次に完成した映画をなるべく客観的に見てみよう。「果たして、この作品のレベルはどのくらいなのか?」今までの苦労などは、少し忘れて考えてみよう。多くの場合は、考えていたものより、いや想像すらしていなかったような駄作が目の前にある。もちろん、傑作がそこにあれば自分の思い描いたような売り方をしていけば良いのだが、そんな幸福な人間はあまりいないのが現実だ。僕の場合もSCARというホラー映画を制作したとき、そのあまりの「怖くなさ」にショックを受けたものだ。監督ならば、ここでショックを受け「何が悪かったのか?」反省でもして、次回に(次回があれば)つなげればよい。

しかし、プロデューサーは違う。どんなに駄作でも自分の思い描いたゴールを目指さなければならないのだ。そして、それこそがプロデューサーとしての花道、すなわちプロデューサーが一番生きいきと活躍する場所なのである。作品自体の出来が悪くても、自分が必死で考えた企画である。必ず、良い部分があるはずだ。もしくは、すでにその「企画」自体が魅力を持っているのかもしれない。だから、その「魅力」をどう使うか?を考えるのだ。

作品を客観的に判断した結果と、作品の「魅力」。この2つを使い自分が目指すゴールにどうしたらたどり着くのか?を必死で探して欲しい。もちろん、この2つの結果によっては、ゴールを変えることだって良いのだ。例えば、「映画祭狙い」から「多くの観客を動因できる上映」に変更しても良い。要は、この映画をどれだけ活用することができるかが勝負なのだ。

僕の場合は、「SCAR」を自主公開し、2日間で700人を超える観客を集めた。翌年は、その自主公開での動員記録を評価した一般劇場のオーナーがハリウッド映画と同じ値段で普通にレイトショーで公開してくれた。ついでに、インディーズムービーフェスティバルで賞も頂き、キネマ旬報やロードショーなどの多くのメディアに取り上げてもらった。そして、この実績がその後の映画製作において、どれだけ役に立ったことか・・・。

このように、どんな映画でも「うまく活用」できなければ制作しないのと同じなのだ。映画というものは、制作するのに多くの人間の力を必要とするものだ。だから、どんな作品であろうと、できるだけ多くの観客の目にさらす必要があると思う。それが、ボランティアで働いてくれたスタッフや協力してくれた人々へ製作者が果たせる、せめてもの責任だと思う。

 今、映画製作において「この作品はダメだ!」と思うことが何度かある。しかし、SCARという作品は「ダメだ!」と思ったにも関わらずプロデュース能力である程度の評価を頂くことができた作品だ。この作品がなければ、この作品を「駄作」として、世に出すことを諦めていたらこの後、僕は映画製作というものをやる事ができなかっただろう。今、改めてこの作品を見ると、正直やはりここまで評価をもらえるほど良い作品とは思えない。しかし、今から5年前に日本風ホラーをアメリカでやったという企画自体は、とても素晴らしかったと、「リング」が大ヒットし、ハリウッドが日本ホラーに注目している現在は確信を持って思える。

  僕は監督だ。だから、「質が悪くても、売り方次第だ・・」なんて言ってはならないと思う。ただ、映画製作中どうしても壁にぶち当たったとき、諦めそうになったとき、自分の制作している企画が素晴らしいと信じられたら・・もしくは、プロデューサーが信じさせてくれるのなら・・、さらに頑張って、より質の高い作品を目指すことができると思う。

  映画はビジネスツールであると同時に、アートであり、文学である。だから、本当に良いのか?悪いのか?なんて言うのは分からない。ただ、時代に乗って観客に受け入れられたり、映画祭で賞を取ったり、なんて運みたいなことがあるのだ。もちろん、普遍的に素晴らしい作品もある。ただ、そんな作品にはそうそうお目にかかれるものではない。プロの世界を見てみると分かる。日本でうけないが、すでに海外セールスで制作費を回収し利益をだした映画。評論家からの評価は酷いのに、大ヒットした映画。逆に個人的には凄く面白いのに興行的に大コケした映画など、たくさんの例がある。こういったものを、よく観察し、分析して考えてみると、今自分の手元にある作品をどうすればよいのか、きっと見えてくるはずだ。もしかすると、物凄い利益をもたらすダイヤモンドの原石かもしれない。その作品を「磨く」か「捨てるか」はまさにプロデューサー次第なのだ。いや、もしかするとその作品は磨いても大したことはないかもしれないが、その監督が「ダイヤの原石」かもしれない。作品の「魅力」と監督の「才能」。これらを、見極め、どう世に出していくか?つまるところ、これがプロデューサーの使命なのかもしれない。

インディーズ プロデューサー論7  最後に・・

7、最後に・・

学生や、自主制作のプロデューサーに今まで書いてきた事を求めるのは、かなり酷なことかもしれない。ただ、僕としてはここに自主制作映画におけるプロデューサーの理想を書いてみたつもりだ。これが、今から映画製作を始める人たちに、うまく当てはまる「理想」になるかは疑問だが少なくとも自分達が進もうとする「映画製作のあり方」について話し合う材料にはなると思う。

この文は、「プロデューサーの役割」という視点で書いたものなので、どうしても「プロデューサーは、こうすべき」というものが多い。しかし、「どんなにプロデューサーが熱意を持って企画を説明しても、監督が聞く耳を持たなければ意味がない」。また、「プロデューサーは監督を守れ!」と言っても、「守りたくないような姿勢の監督」では誰もプロデューサーとして最後まで役目を果たすことができない。結局のところ、映画製作とはプロデューサーと監督が強い信頼関係で結ばれていなければ意味がないということなのだ。「ビジネス面のトップ」と「芸術面のトップ」が、がっちり手を組んでこそ初めて他のスタッフが支えてくれ、良い作品というものが生まれるのだと思う。

映画製作というのは、問題ばかりが起き本当に心身ともに疲れ果てる。次回はない・・と思うことも何度もある。でも、だからこそ「完成したときの感動」は、計り知れないものがあるのだ。

この文を、うちのプロデューサーに読ませたとき彼は言った。「プロデューサーなんて言うのは、製作後のこと、いや、その先の10年を夢見ていないとやってられない・・」と。

確かに、そうだ。制作者は、常に作品の完成後のこと。それは、この作品に感動する観客の顔だったり、映画館の前に長蛇の列を作る観客だったり、映画祭での賞を受賞するときのことかもしれない・・もしくは、10年後に誰かが、「昔、こういう映画を見たんだけど・・凄く感動したんだよね」なんて何気なく言う言葉なのかもしれない。

映画製作者というのは、作品自体に熱意を込めるのは当然だ。でも、その先に自分達の夢を託して作品を制作するというのもまた大切なのだと思う。この文が、これから映画製作を始める方々へのお役に少しでも立つことを願いながら終えることにする。

おわり